
14日に坪内祐三が亡くなったのをニュースで知った。
ショックだった。
その夜、坪内さんの文章を読もうと、本箱を見ると、「人声天語」が見当たり、手にとった。
通読したその本に一箇所だけ付箋がつけてあった。
文藝春秋2005年6月号
「記録と記憶と準記憶―歴史を知る」
ひどく、印象的で考えさせられる文章だった。
真に歴史を知ること、つまり、歴史を記憶すること、とは、どういうことだろう。
よくプロ野球選手などが、記録ではなく記憶に残る選手になりたいと言い、その場合の記録とは単なる数字を、そして記憶とは強い印象を意味しているが、記憶と記録はどれぐらい重なり合うものなのだろうか(もちろんここで私か問題にしている記録とは単なる数値の意味ではない)。
言い替えれば、ある一つの記録から、いかに正確な記憶が再現出来るのだろうか。
さらに言えば、記録と記憶の間にはもう一つ準記憶とも呼ぶべき歴史把握がある。
例えば、昭和三十三(1958)年生まれの私は、明治時代のことは記録でしか知らないけれど、太平洋戦争のことは記憶が、いや準記憶がある。
私の父は元海軍の軍人であったし、私の小学校や中学校の教師には軍隊帰りの人間がいくらでもいた。東京の公立校であっても、母親や父親が被爆者であるクラスメイトが何人かいた。繁華街に出れば本物の傷痍軍人をよく見かけた。
私の世代であれば当り前のことだろう。
そういった大人たちから、戦争の様ざまな話を耳にし、その体験を共有した。
様ざま、と書いたのは、それらの体験が必ずしも同じものではなかったからだ。
その時暮らしていたり従軍していた場所や時の差によって様ざまな違いがあった。
しかし、そういう差異を超えて、私の中で、太平洋戦争に対する一つのイメージが記憶されていった。
その記憶によって、私は、太平洋戦争の記録の真実を読みとろうとする。
真の歴史とはそのように語り(読み)継がれて行くものではないだろうか。
一方に記録かある。
もう一方に記憶を待った当事者がいる。
そしてその記憶を耳にした準記憶者がいる。その準記憶者が記録の中の真を読み解き(少なくともそれを読み解こうという努力をし)、それをまた記憶あるいは記録して行く。
この繰り返しによって、「歴史」は、真の歴史に近づいて行くのではないだろうか。
記憶だけでは歴史は切断するし、記録だけなら、歴史は、時に誤用される。
ポイントとなるのは準記憶者という媒介者の存在である。
病院に行く途中で、文藝春秋(2019年6月号)を読んでいた。
図書館の検索システムで何度チェックしても常に貸出中だったものが、前日にでかけた図書館ではたまたま返却されたタイミングだったので運よく借りることができたのだ。
読みたかったのは村上春樹が父親のことを初めて綴った文章が掲載されていたから。
父親と猫を捨てに言った話に始まり、確執のあった父親の生涯を辿っている。
村上春樹のお父さんはお寺の次男として生を受けた。その後、学業半ばで一兵卒として戦地に赴いたのだが、その中国で捕虜の処刑の場に立ち会うことがあったようだ。
また、仲間をこの戦争で失くしたこともあり、その人たちのために毎朝長い時間をかけてお経を唱えることを欠かさなかったという。
そうした父親の姿を見続けてきた村上春樹もまた準記憶者に違いないと思った。
同じ文藝春秋の後ろに坪内祐三の人声天語が掲載されている。
「平成の終わりに思うこと」というタイトルの文章は次のように始まる。
この原稿を書いている今日は平成三十一年四月十八日。
つまりあと二週間ほどで平成が終わる。
私は昭和が終わっていった時のことを思い出している。
続いて、昭和という時代を思い、亡くなっていた手塚治虫、大岡昇平の名前を挙げていく。
また、時代が変わるに合わせるように亡くなっていた者の名前も
橋本治、岡留安則、内田裕也、萩原健一、モンキー・パンチ……
そこから平均寿命の話に変わっていく。
元号とは別に平均寿命のことを時に考える。
私の父は大正九(一九二〇)年生まれで、大正九年十年生まれは太平洋戦争でもっとも多く戦死者を出した世代だ。
しかし生きて帰った人たちは長生きで、私の父は九十過ぎまで生きたし、同世代の作家安岡章太郎や阿川弘之、庄野潤三も長生きした。彼ら“第三の新人”の人々は長寿が多かった(中で例外は吉行淳之介と遠藤周作だが二人とも若い時に肺を患っている)。
そのペースで長寿化が進むかと思っていたのだが、ある変化が起きた。
次の世代、昭和一ケタ生まれには「八十の壁」があったのだ。
私の知る人、山口昌男さんも常盤新平さんも野坂昭如さんもそれぐらいの年齢で倒れていったのだ。
続く昭和二ケタ生まれは「七十五の壁」があった。赤瀬川原平さん、安西水丸さん。
だから団塊の世代は「七十の壁」があつて、橋本治と岡留安則はその壁に倒れたのだ。萩原健一はその下の高校全共闘世代に近く、つまり「六十五の壁」だったのだ。
すると私たちシラケ世代は「六十の壁」で、今年の五月八日に六十一歳になる私は恐怖だ。
こんなことを書いていたんだと、何とも言えない気持ちになった。
こんなこと書いちゃ駄目だよ……
坪内祐三は同い年だった。