デルスー・ウザーラ

昨年読んでいた梨木香歩の「渡りの足跡」の中に出てくるデルスー・ウザーラ(本の中ではウザラー)に触発され、読みたいと思っていたウラジーミル・アレセーニエフの「デルスー・ウザーラ」を手にとった。
東洋文庫で読みたいと思っていたが、どうも1902年の探検の部分が入っていないようだったので、河出文庫版を求めた。

Img_0001_20200517103801
Img_20200516191301

「デルスー・ウザーラ」は、1900年初頭、北海道、サハリンのロシア側対岸のシホテアリニ山脈を探検したアレセーニエフの探検紀行の記録。
探検の記録ではあるが、物語の主役はガイド役を努めた現地の漁師デルスー・ウザーラ。
自然を観察、人や動物の動きや心理を見つめる漁師としての姿が描かれている。また、自然や動物に対する世界観はアニミズムといっていいほど素朴だが、常に行動と一致しており、それらは等しく人間にも注がれ、粗末に扱うことなく丁寧さにに溢れている。
アレセーニエフが発見するデルスー・ウザーラの行動や言葉は、現代人が忘れてしまっている人の本然的なものを思い出させる。

……
目をさまして私は、デルスーが薪を割り、シラカンバの皮をあつめて、これらをみな小屋の中へ運びいれるのを見た。彼が小屋を燃やそうとしているのだと思い、私はそれをやめさせようとした。ところが、彼はそれに答えないで、一つまみの塩と、少量の米をくれと言った。彼がそれで何をするつもりか興味があったので、私は彼にその欲しいものをやるように命じた。ゴリド人はシラカンバの皮で丁寧にマッチをくるみ、塩と米を別々にシラカンバの皮につつんで、これらを小屋の中につるした。ついで彼は外部から屋根の樹皮を修理し、それから出立の身支度にかかった。
「きみはここへかえってくるつもりなんだね?」私はゴリド人にきいた。
 彼は否定的に頭をふった。そこで誰のために米、塩、マッチをおいておいたのかと、私は彼にきいた。
「誰か、誰か、別の人、くる」デルスーが答えた。「小屋みつける、かわいたマキみつける、マッチみつける、くいものみつける――死なない」
 私はおぼえている、これがひどく私をびっくりさせたことを。私は考えこんでしまった………ゴリド人は自分の一度も見たことのない人間、まったく未知の人間について心配していたのである。その人間はまた誰が彼のために薪や食料を用意してくれたかを知らないのである。私は兵士らが野営地を去る時、いつも屋根の樹皮を焚火でもやしてしまったことを思いだした。彼らはそれを乱暴をはたらく気持ちからではなく、単純に、おもしろ半分にやったので、私もそれを禁止したことはなかったが、これにくらべると、この野生の男ははるかに人間への愛に富んでいた。旅人へのこの配慮! ……どうしてこの気持ちのいい感情、他人の利害にたいするこの配慮が、町に住む人々には荒れすさんでしまったのか。だが、これは都会人にも以前はあったものである。

黒澤明がソビエトから依頼されて映画化されたものがあるが、まだ見ることができていない。
映画を見る前に本を読むことが出来てよかった。
デルスー・ウザーラの画像がないかと検索してみると、幾つか見つかった。

26f5bc30

アレセーニエフと一緒に

Dersu_uzala

探検家でありながら学者でもあったアレセーニエフの自然描写にも惹かれる。
もう少し、この時期の探検史を調べて見るつもり。