ありがたいことに、今日も千客万来。
インターフォンを押して入ってきていただき、びっくり!が、3連続でした。
お一組は、遠く名古屋からいらしてくださいました。
ほんとうにありがとうございます。
お茶のお友達からは、ご自身がブレンドされたお茶をお土産にいただきました。
『Lemon Drops』
ネーミングも素敵です。
今晩、楽しませていただこうと思います。
人が滞在するところに、ごみ屑あり。
店内で長時間店番をしていれば、ご飯も食べるし、お茶もします。
ごみは極力少なく・・・と思いますが、何やかんや、週2回の燃やすごみ、1回の燃やさないごみ・プラごみ、資源ごみと、ごみ出しの曜日を気にしておく必要があります。
江戸の日本は『循環型社会』だったといいます。
瀬戸物の焼き接ぎ、提灯の貼り替え、錠前直し、朱肉の詰め替え、下駄の歯入れ、鏡研ぎ、臼の目立てなどの修理専門業者がいて、紙屑、古傘骨、古樽、ロウソク、灰なんかを買いとる職業もあったそうです。
多種多様な物質に囲まれて暮らしている今となっては、決められたとおり分別して捨てるということが、私たちがすべき最低限のことかもしれません。
暮らしの循環化は現実離れしてるかもしれませんが、ささやかな読書体験を循環させることくらいはできていくのかも。
みつづみ書房、本の買い取りもぼちぼち行ってまいります。
お手元に循環させたい本がございましたら、お声かけくださいませ。
【叡智の詩学】
批評家の小林秀雄と哲学者の井筒俊彦の相通ずるところを論じたもの。
同じものを観、同じことを語っていた。
井筒俊彦が若い時、アラビア語やイスラームを学んだ師にムーサーがいた。
このムーサーという大学者(ウラマー)がとてつもない人物だったようだ。
p.53
「神学、哲学、法学、詩学、韻律学、文法学はもちろん、ほとんどのテクストは、全部頭に暗記してある。だいたい千ページ以上の本が、全部頭に入ってしまっている」(20世紀末の闇と光)
ウラマーとは大学者のことで、学者は文献に頼らずとも、どこでも学問が出来なくてはならないとムーサーはいった。書物がなければ学問が出来ない。それではカタツムリではないかといって笑ったという。
井筒俊彦の妻が井筒豊子。
中央公論社から小説集が一冊出ている。
その中の一編に、バフルンヌーン物語があるが、井筒と思しき主人公の青木とムーサーとのやりとりが書かれており興味がつきない。
その他の作品も読ませる「白磁盒子」、古本屋でもなかなか見かけない本。
【翻訳文化】
今朝の朝日新聞、折々の言葉は、小林秀雄だった。
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現に食べている食物をなぜひたすらまずいと考えるのか。まずいと思えば消化不良になるだろう。
(小林秀雄)
◇
翻訳文化と指さされようが、底の浅い文化と揶揄(やゆ)されようが、判断は今ここにあるこの文化のなかで芽生えさせるほかない。たとえそれが朽ちかかっていても。歴史の地べたではなく高みに立って、時代をさげすむだけ、自らもそれにまみれてきたことを掘り下げない批評がいかに空しいかと批評家は言う。「ゴッホの手紙」から。(鷲田清一)
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小林秀雄がゴッホの手紙を書くきっかけになったのは、昭和22年の泰西名画展覧会を見に行ったおり、喧噪と埃を避けて見ていた複製画のゴッホに出会ったことであった。
先の言葉の前の文章は、次のように書かれている。
悪条件とは何か。
文学は翻訳で読み、音楽はレコードで聞き、絵は複製で見る。誰もかれもが、そうしてきたのだ、少なくとも、およそ近代芸術に関する僕らの最初の開眼は、そういう経験に頼ってなされたのである。翻訳文化という軽蔑的な言葉がしばしば人の口にのぼる。もっともな言い分であるが、もっとももすぎれば嘘になる。近代の日本文化が翻訳文化であるということと、僕らの喜びも悲しみもその中にしかありえなかったし、現在もまだないということとは違うのである。どのような事態であれ、文化の現実の事態というものは、僕らにとって問題であり課題であるより先に、僕らが生きるために、あれこれののっぴきならぬ形で与えられた食糧である。誰も、ある一種名状しがたいものを糧として生きてきたのであって、翻訳文化というような一観念を食って生きてきたわけではない。あたりまえなことだが、この方はあたりまえすぎて嘘になるようなことはけっしてないのである。このあたりまえなことをあたりまえに考えれば考えるほど、翻訳文化などという脆弱な言葉は、凡庸な文明批評家の脆弱な精神のかかに、うまく納まっていればそれでよいとさえ思われてくる。愛情のない批判者ほど間違う者はない。
カレンダーに印刷された絵を画鋲でとめてあったり、絵葉書を額に入れてあったりすること、そのことをそれでもいいではないか、それでも絵を愛すること、目を楽しませることができるのであれば。小林秀雄のこの文章を読んで以来、胸に刻みつけてきた。
しかし、
「モナ・リザ」の前で、あるアメリカの婦人が「複製とそっくりだわ」とさも満足気に叫んでいるのを私はみたことがある。
「模倣と創造」池田満寿夫
とならなければの話だ。